バヌアツに来てもうすぐ1か月になろうとしているところですが、段々と「日本人の、バヌアツ人に対しての評価」が見えてきました。

働かない

時間通りにこない

自分たちじゃ改善点を見つけられない(私たちが教えてあげなきゃ)

計画、プロジェクトが進まない
いろんな人がいろんなことを言いますが、大体こんな感じです。
助けてあげるという名目のもと、他所から私たちがやってきて、勝手にイライラしていたり、(無自覚に)ちょっと見下していたり…
そう言っている彼らに悪気はなく、むしろ彼らのような人たちが、プロジェクトを動かしていく、重要なキーパーソンになっていくことは重々承知しています。
そうだとしても、私はこの類の言葉を聞くたびに、違和感を覚え、自分自身も傷つけられるような感覚になります。
なぜこんなことが起こってしまうのか。
(国際協力は一方的なものではなく、その土地の価値観を尊重してとかなんとか、 訓練中にもさんざん言われた気がするのだけれど、どこにいった多様性…)
このことについて、隊員の一人と話していた時に、答えの一つが見えてきました。
他人と自分の境界線。

それは「自分と他人との間に、絶対的な一線を引けるか引けないかの差」です。
つまり、自分(日本人あるいは先進国側)と他人(バヌアツ人あるいは途上国側)を全く別の人間だと、自分の中で境界を引いているひとは、
上のような発想になりやすいのではないか、という考えに至りました。
彼らは、「もし自分からバヌアツに生まれていたら、 バヌアツ人と同じような働き方、考え方になっていただろうな」とは恐らく考えないでしょう。
働かないように見えるのは、この国の環境に適応した結果であり、怠け者だからではないと考えています。
確かに外国からの支援慣れしている側面はあるけれど…それも含めて彼らが自分たちの国に適応した結果です。
バヌアツ人が、自分たちでは改善点を見つけられないのではなく、究極的に困っていなければ、改善点を見つける必要がないのかもしれません。
だから、そこに問題意識がなければ、いくら外側から働きかけたところで、プロジェクトが進まないのは当然と言えば当然だと思います。
↓↓バヌアツ人の死への問題意識や、何故プロジェクトがうまくいかないのか少し触れてます。よかったらどうぞ。↓↓


彼らには彼らの時間が流れています。
この国の人たちが、困ったときに手を差し伸べられり、彼らと共にゆっくりと、一緒に成長していけたらいいなと、私は考えています。
(追記:バヌアツにコロナが入って来そうになったときは、現地の保健省職員だけで必死にプロジェクトを進めていました。
本当にやばいと思ったときは、普通に彼らも仕事してます。そして、彼らが本当に困ったときには、ボランティアは帰国でした(;_;) 2020/4/19)
<日々たくさんの気づきをくれる、この国に感謝を込めて>
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました!
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2020/2/15
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